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  「六マリアの悲劇」と「私は裏切り者」

どちらが本当なのか
   



1993年11月4日、文鮮明の大罪を暴露した「六マリアの悲劇」が恒友出版株式会社から発行された。著者は文鮮明の側近であった朴正華パクチョンファである。

2年後の1995年11月1日、今度は「六マリアの悲劇」で暴露された文鮮明の大罪を取り消す内容の「私は裏切り者」という本が統一教会系の出版社である(株)世界日報社から発行された。この著者の名もまた朴正華となっている。

はたしてどちらが真実(事実)なのだろうか。




1.「六マリアの悲劇」のオリジナル原稿「野録統一教会史」

1995
1222日、朴正華が来日した。目的は、「私は裏切り者」は嘘本であり、「六マリアの悲劇」の内容が真実(事実)であることを証言するためであった。

半身が不自由であった朴正華が重いカバンを肩に担いで小松空港出口にあらわれた。体に大きな負担をかけてまで、一体何を担いできたのかと思った。持参したのは「六マリアの悲劇」のオリジナル原稿である「野録統一教会史」の原稿のコピーであった。「六マリアの悲劇」が真実であることを明らかにするために、この原稿を用いてほしいという願いからであった。「この原稿には『六マリアの悲劇』より、もっと詳しいことが載せてある」と朴正華は語った。
            


               


 


上記画像は200字詰め原稿用紙6000枚に及ぶ原稿の中から朴正華が特に重要な部分をセレクトして持参した「野録統一教会史」の原稿のコピーである。


「野録統一教会史」という表題は、「六マリアの悲劇」のあとがき279頁で朴正華が記しているように朴正華本人が決めたものである。1985年に朴正華が執筆を開始した原稿は、全部で200字詰め原稿用紙約6000枚に及ぶ。この「野録統一教会史」から「六マリアの悲劇」は生まれた。

1996年3月1日、「六マリアの悲劇」の韓国語訳「野録統一教会史」が李大馥(イテボク)牧師によって韓国で発行された。オリジナル原稿は、朴正華が長年にわたって書きためた「野録統一教会史」である。
    

 



「六マリアの悲劇」と「野録統一教会史」では、内容は同じであるが、     構成順序や一部、写真の入れ替えがある。          



2.「私は裏切り者」はどのようにして出版されたのか


1996年5月10日、朴正華が「(私は裏切り者)出版経緯書」(下記画像参照)を手渡してくれた。ここには、「私は裏切り者」がどのような経緯で出版されたかが記されている。
     


「私は裏切り者」出版経緯書(主)(朴正華著)
B5で26枚 本文は韓国語

 

「私は裏切り者」出版経緯書は、「私は裏切り者」が発行される2週間前に朴正華が書き終えたものである。「私は裏切り者」発行に至る経緯は、出版経緯書の後半に記されている。「六マリアの悲劇」が出版された翌年の1994年からの部分を掲載する。


「私は裏切り者」出版経緯書(日本語訳)

「安室長が日本に行こうというので、目的も全く分からないまま日本に行き、世界日報の石井社長と斉藤局長、阿部氏と武田・世界日報韓国特派員らと中田屋旅館で一晩宿泊し、翌日、再び皆で集まって本を出版しようということになったのである。

まず石井社長が、私は裏切り者という題名にしようと言った。私は何が何だかわからないジレンマに陥った状態だったが、その後、原稿の読み合わせが始まった。私も一緒に読んでいった。最初は約40枚の原稿を読んだが、その中で『六マリアの悲劇』というのは「根も葉もない事である」と記載されていたので、現在当事者6名中、4名が生存している問題だというのに、いったいどういうことかと訴えても、聞いて聞かぬふりをしているのだった。そのまま読み進めて約100枚近い原稿を読んだ後、末尾には年月日を記載し、「これでいいです」と書き、私の名前を書いて捺印しろと言うので捺印したのである。

1995226日、イチョン雪峰ホテルに行こうと言うので安室長の言うとおりついて行くと、日本の中田屋の時と同じように原稿を持ってきていて、石井社長、斉藤局長、阿部氏らが交替で読みながら、私にも読めと言うので読んでみた。読む時には録音をし、今回は約150枚ほどを読んだ。末尾には「これでいいです」と書いて、年月日を記載し、署名捺印した。署名捺印を終えると、石井氏が出版契約書を作成してきて『私は裏切り者(仮題)』の出版契約金だと言って日本円で250万円をくれるので、領収証を書いて金をもらった。

また、1995228日、ロッテホテルの食堂で安炳曰室長から『六マリアの悲劇』の著作権譲渡金だとして2000万ウォンを渡され、作成されてあった契約書に捺印して見ると、以前に米国旅券ビザを取る際、私の不動産登記簿謄本を見た安室長が、負債があると手足が縛られて大変だから4000万ウォンの負債を返済してあげると言ってくれて感謝していたことが、すっかり裏切られた気分になった。

文鮮明氏を再臨主と信じ、10年間というものすべてを共にして来て、しまいには裏切られた上に、今度は安炳曰氏の手厚い態度に感動して言われるままにしてきた挙げ句、結局は著作権を奪われ、裏切り者にまでされてしまったのだから、到底黙って見過ごすことのできない事件である。私はこのことに対し、対策を練るしかないではないか? 私は83歳になって、いつ死ぬか分からないのだから、いったい怖いものなどあるだろうか? 沈思熟考したのである。

1995年5月6日、再び安室長が日本に行こうと言うので、最後まで従ってみようと内心思い、渡日した。中田屋旅館に宿泊して、例の四人が原稿を読みながら私にも見ろと言うので見てみると、今度は枚数が相当に多く見えたが、例の録音をして全部読んだ後、「これでいいです」と書き、年月日、署名捺印をして二日間、休みながら原稿を読み帰国したのだった。

1995年7月2日、私は右手が痙攣してきたので中国漢方医院で治療していたところ、仁川に例の石井一行四名が来て、そこに来いと言うのである。前回の出版契約の件と著作権譲渡の件を思い出して行く気になれなかったが、−度は踏み出したことだから最後までやってみようと決心して、私も計画があったのでついて行き、夜9時まで原稿を読んで録音し、年月日を書いて署名捺印し、夕食を共にして家に帰った。その後一週間、病院に通いながら漢方薬を飲み、針治療を受けた。今回の原稿には、とりわけ容認しがたいページがあまりにも多かったので、これは真っ赤な嘘だからありもしないこんなことを書いた原稿で出版することはできないと訴えても、聞き入れようとしなかった。従って、その項目をここに記載して参考に供する。     

文先生が、六マリアの中の一人で、当時管財管理庁長だった
○○氏(注1)夫人の李順哲氏(注2)と復帰するために彼女を家出させ、このことを知った鮮干氏は先生を逮捕しようとした。私は釜山専売庁で縄の納品を受けて帰って来たところ、文先生が安養で仕事して、釜山を経て20日後にソウルに戻ると聞いた。そこで、同業者の金愚泰という者がこのことを知ってお金を持って行ったのだが、私が革カバンに入れておいた金をスられたということになっているのである。

原稿は全部見たつもりだったが、日付ははっきりしないがしばらく後、阿部氏が字句修正したものがあると言って仁川に来た。安室長と一緒に松島カルビ屋で会ったところ、何箇所か修正があると言われた。これに年月日、署名捺印し、これで完成だと言われた。

その後しばらくして、また日本から世界日報の石井社長と斉藤局長、阿部氏、韓国特派員の武田氏らがロッテホテルに来て会おうと言うので行くと、また何箇所か修正があるから年月日、署名捺印を頼むと言われ、そのとおりにしたが、今度私が見た原稿は、私が見たことも、聞いたこともない原稿だった。分かったことは、石井社長の作文によって、著者である私が、私自身を裏切り者としているということだった。

私は当初、日本に行って、日本の食口たちが私の著書によって大きな打撃を被るのならば、適当に修正して損傷を与えないようにするつもりだったのだが、原稿を全部読んでみると、それは全くの嘘本になってしまっていたのだ。

真の父母だと世界を騒がせておいて、また、文先生が直接私に教えてくれ、二人で実践した原理によって真の父母になったと言っておいて、どうしてこの原理を隠蔽しようとするのか。初創期には世上の法が怖くて、蘇生期であるがゆえに隠したとしても理解できるが、今は六マリアの基台の上に、三六家族が成立した基台の上に、聖婚式まで挙げて、いわゆる子羊の儀式までして世界に君臨する真の父母が、その原理をなぜ隠蔽するのか。

私は、この干証文で嘘を言うはずがない。1987年12月20日付け文鮮明先生に送る書信と、この干証文をどのように扱うか検討中である。この間、安炳日室長と共に、日本で『六マリアの悲劇』を出版して帰国してから行った様々な事を、事実そのままに記録した。この間私は日本の幹部らが訪ねてくるたびに、熊謄をくれたのと安室長が洋酒をたびたび贈ってくれて、たいへん治療に役立った。通風に効く薬を何度もくれて効果があったことに対しては、何度でも礼を言いたい。しかし、私が出版した『六マリアの悲劇』は、私が考えたり、研究したりして記録したものは、たったの一枚もなく、統一教会の原理であることを自負し、この本が満天下に公明正大に認められる時こそ、真の父母を戴いた円和園理想世界が到来するものと信じ、その曰を首を長くして待つばかりである。」






(注1)原文では実名になっているが、ここでは、○○とした。
(注2)原文では実名になっているが、ここでは「六マリの悲劇」(p.156)で表記されている名前にしたがって李順哲とした。




「私は裏切り者」出版経緯書(韓国語原文)

 (●は、実名を伏せるため、当ホームページ管理者がつけたものである)


この出版経緯書から明らかなことは、「私は裏切り者」は全くの嘘本であり、「六マリアの悲劇」が真実(事実)であるということである。


このことについて朴正華の証言映像をご覧いただきたい。

(1996年5月11日金沢市にて)


朴正華の証言のビデオ(35秒) 

画像をクリックすると映像がダウンロードされて視聴することができます
         

朴正華の命は、既に地上から取り去られている(1997年3月26日逝去)が、彼は今も「(私は裏切り者)出版経緯書」において、また証言映像において、「六マリアの悲劇が真実(事実)であることを語り続けている。



3.「私は裏切り者」に書かれていない事実

「名誉毀損による申四勲牧師に対する有罪判決」のその後の判決
「私は裏切り者」の巻末「資料2」「裁判で決着済みの『血分け』問題」(P.274)の5では、「ソウル刑事地方法院は同年(注1)12月26日、ソウルのセサク教会の牧師で、統一教対策委員会委員長である申四勲(シンサフン)牧師に対し、世界基督教統一神霊協会と文鮮明師らに対する名誉毀損等で懲役10カ月、執行猶予2年の有罪判決を言い渡した」(P.286)と記されています。 (注1)1989年

しかし、申四勲牧師は控訴し、これに対してソウル刑事地方院第4部は1994年7月5日、この有罪判決を破棄し、申四勲牧師を免訴する判決を言い渡しました。主文と判決理由の抜粋を以下に記します。



主文 原審判決を破棄する。
被告人を免訴する。
理由

被告人の控訴理由の要旨は、被告人はあくまでも、統一教の実態を明らかにし、統一教が異端であることを知らせようという意図から、このような行為をしたのであって、その内容は決して虚偽事実ではなく、まして被害者文鮮明を誹謗する目的も全くなかったにもかかわらず、原審は被告人がその判示の犯罪を犯したと事実誤認することによって、判決に影響を及ぼす違法を犯したということである。


1994.07.05判決宣告 ソウル刑事地方院 第4部

裁判長 判事 ソン・ギチャン
判事 ユン・ソンウオン
判事 パク・チェワン



この判決は、「私は裏切り者」が発行された1995年11月1日から、1年3ヵ月前に言い渡された判決にもかかわらず、この事実は「私は裏切り者」の中のどこにも記されていない。この判決の持つ意義は、申四勲牧師が単に免訴とされたというだけでなく、申四勲牧師の講演や執筆内容が、決して虚偽の事実ではないことを韓国の裁判所が認めたということである。



4.ある老婦人の証言
2006年5月26日、私の韓国訪問を待っていてくれた一人の老婦人が訪ねて来られた。今回、テグからプサンに戻らずソウルに上ったのは、この方と会うためであった。
この老婦人は、統一教との出会いから脱会に至るまでの、それほど幸せを感じてこなかったという、その人生について話してくれた。
3時間ばかりこの方の証しを聞いた後で、私は一つのことを訊ねてみた。

「○○○さんは、統一教に入っていたとき『六マリア』という言葉をきいたことがありますか」
「勿論、知っていますよ」 
「今、幹部となっている年老いた女性たちも『六マリア』について知っていますか」
「女たちの間では、あたり前のこととして知られていましたよ」 

後日、この老婦人は、金沢に来て、さらに詳しい証言をしてくださった。